2010年2月
『マニラ空港』  Feb. 28, 2010 ▲Top
 5年ぶりに訪れたフィリッピンだったが、マニラ空港に着いて最初に冷や汗をかいたのは、 頼んでおいた弟側の出迎えに会えないことだった。事前の知らせでは入国審査が終 わったら、空港の外に出て、突き当たりの右側辺りで待っていると言われていた。 順調に手続きを済ませて外に出て出迎えを探した。既に一緒に乗ってきた乗客が殆ど 居なくなっていた。私が大きな荷物を積んだカートを押して、20分位うろうろしていたので、 空港の係員も心配して声を掛けてきた。そこで実は弟が出迎えに来ているはずなのだが 見つからないと言うと、親切な事に周りの皆が一緒に探して呉れた。やっと見つけた時、 最初に声を掛けて呉れた空港の係員がそっとチップを要求してきた。しかしまだ到着した ばかりで持っていたペソは5年前に使い残したペソで金額は1000ペソだけだった。 まさかお釣を要求する訳にも行かずそのまま上げたが、後で弟から笑われて、金額が 大きすぎた事と、持ち合わせていなければ、チップなど上げる必要も無かったと言われた。 私自身ペソの価値観がまだ分からず、言われてみれば多すぎたことを悔やんだが仕方 なかった。それ以後チップは誰にも一切上げなかった。

『充電器』  Feb. 27, 2010 ▲Top
 先日、2週間のフィリッピン旅行に行ったときのこと。携帯する機器類には充電式の 電池を使うものが多かったので、出発前日まですべて一杯に充電し、充電器もすべて トランクに詰めて行った。機器類とは、携帯電話、デジカメ、ビデオカメラ、電気剃刀 等だった。それぞれメーカーが異なる上に、電池の形状も充電方式も異なる特殊電池だ。 当然充電器が共用できるものはひとつもない。電気剃刀は万一の場合安全剃刀で代用が 利くので充電が切れても問題はなかった。問題はデジカメだった。実は注意深く持って 行った充電器は勘違いして、形は似ているが別の機種の充電器を持っていってしまった。 しかし持参した機器類のうちデジカメが一番使用頻度が高く、最後までは持たなかった。 最終日前までに電池切れ表示が出て、動かなくなった。残念ながら最終日の記録写真は まったく写すことが出来なかった。このホームページに掲載されるのを待っている読者に 申し訳ないが最後のネタは無いことをお許し願いたい。

『目まい』  Feb. 26, 2010 ▲Top
 先日、約2週間のフィリッピン旅行では、弟の配慮で毎日ゴルフに連れて行ってくれた。 日頃鍛えている身体だから少々の無理は効く筈と、誘われれば早朝の出発にも応えて行った。 弟は以前から血糖値が高く、糖尿病対策として毎日運動が義務付けられて居る為、ゴルフ場 では、乗用カートに乗らず全て自分の足で歩いて移動する習慣だ。今回私と一緒にラウンド するのにも、手押しのカート引いての歩きゴルフだった。彼は若いこともあり平気だったが 私の方はさすがに身体には疲れが溜まり、疲労からくる一時的目まいが生じたようだ。 朝ベッドから起き上がるとき目の前がぐるぐる廻り真っ直ぐ立てなかった。慌てて物に捕まり 立ったが、歩く時はまるで酒酔い状態だった。すぐ目まい止めの薬を貰って飲み押さえたが、 帰国後も相変わらずふらふらしている。医者に見てもらったが特に身体に異常は無いらしい。 安静にしていれば治ると言われ注射も打ってもらった。毎食後に飲む薬も貰ってきた。 暫くは隠忍自重が必要なようだ。

『通用しない常識』  Feb. 25, 2010 ▲Top
 日本ではゴルフの最中に雨が降ってきたら、人は自前のレーンコートを着て、クラブ備え付けの 傘を挿して対応する。昔は自前の傘を用意していた時代もあったが、現在はクラブが準備している。 以前インドネシアへゴルフに行ったときは、クラブ側で傘の準備は無かったが、ゴルフバッグの カバーは準備してくれた。無論日本でもゴルフバッグへのカバーは当然ゴルフ場側が準備している。 これまでの経験から、フィリッピンでのゴルフには、雨合羽と傘は自前のものを準備していった。 今の時期フィリピンは乾季に当たり、殆ど雨の降ることは少ないと言われていた。実際10日間の プレー中に少しでも雨が降ったのは1度だけだった。しかし雨が降り出すと、各プレーヤーは自前の ゴルフバッグ用の雨カバーを出して雨を避けた。そんな経験のない私は、バッグ用のカバーは全く 準備していなかった。自分のレーンコートは着たが、ゴルフバッグは雨に濡れ始めた。気を利かせた 弟が、自分のカバーを外して私のバッグに掛けてくれ、自分用には破れかけた古いカバーを出して 掛けて雨を凌いだ。幸い雨が降ったのは数分間で直ぐ晴れたので実害は無かった。 こんな時、日本の習慣で常識と思っていた事が、国が異なると全く通じなかった事を痛感した。

『韓国人とゴルフ』  Feb. 24, 2010 ▲Top
 今回フィリピンで2週間の間に10回のゴルフをプレーしたが、何処のゴルフ場へ行っても 韓国人のゴルファーが多いのに驚いた。ここに駐在している日本人プレイヤーも見かけるが、 圧倒的に若い韓国人が多い。不思議なのは旅行者ではなく、明らかにフィリピンに住んでいて ゴルフをしているが、彼らは全てプロを目指して熱心な練習を続けている事だ。何処のゴルフ場 近くにも、韓国人専用のマンション風建物があり、小学生の低学年から中学生くらいまでの男女 生徒達が親を離れて寄宿し、英語の勉強とゴルフの練習をしている。その一つの学校を見学させて 貰ったが、まだ幼い顔をした男女子供達が、我々を見ると丁寧な挨拶をして英語で話し掛けてきた。 女性の校長は私財を投じて建物を建て、現在150人の子供を韓国の親から預かってゴルフを教えて 居るという。韓国政府は国策で、お金を稼げるプロゴルファーを育てているのだ。日本のプロ ゴルフ競技会では、いづれ彼らに高額の賞金を献上する事になるだろう。恐るべし韓国パワー。

『海外旅行』  Feb. 23, 2010 ▲Top
 昨日の朝、2週間ぶり懐かしの我が家に戻ってきた。大きな荷物を玄関に運び降ろした瞬間 旅の終わりを感じてホットした。フィリピンでの生活は全てゴルフ中心で、朝の起床は毎日5時 に起き、朝食を摂り身支度を整えて、外はまだ暗い6時に家を出るのが毎日の日課だった。 日本に居る時は、フィリッピンは赤道に近い国、当然気温の高い国と言う感覚だったが、実は 1〜2月は乾期にあたり殆ど雨もなく、気温も低く快適だった。更に弟の住むタガイタイ市は 海抜700mほどの高地のため、日中もクーラーは不要で涼しく、夜は寒くて長袖の上着着用で ないと風邪を引くほどに感じた。朝6時に車のエンジンを始動と同時に暖房機を入れて、車内を 暖めないと寒さで震える。車の窓ガラスは夜露が降りていて入念にふき取らないと運転するにも 支障を来たすほど冷え切っている。今回行ったゴルフ場は7箇所だったが、いづれも20分から 1時間以内の場所にあり、日本に比べて正直難しいコースが多かった。ゴルフ場については 今後時間を掛けて紹介していきたい。

『DNA』  Feb. 9, 2010 ▲Top
 私の弟達の話は、度々話題としてこのサイトに出演していて、長男の私を筆頭に5人の弟がいる。 母親が一番欲しいと望んでいた女の子は、長年頑張ったが産まれたのは最後まで無骨な男ばかりだった。 父は73歳の時胃癌で亡くなり、3年後母も同じ胃癌で父の後を追った。2男は不幸にして若い頃、 肺結核を患い、その時の輸血が元で、B型肝炎となり、慢性肝炎から肝硬変となり、最後は肝臓ガン で亡くなった。こうしてみると、我が家は家系的に癌のDNAを引き継いでいるのかと恐れている。 ただし、亡くなった両親と2男は、同じ家で長年生活していたが、私やその他の弟達は全員高校卒業 以降は、全て親元を離れた土地で学生生活と就職、更に結婚した後も、別々の土地で生活をしてきた。 食生活や生活環境が癌に影響を与えると考えると、その後の生活拠点が何処であれ、何れDNAが 効いて発病するかも知れないが、今のところ各地で生活している他の兄弟には、癌の兆候は全く見られ ていない健康体だ。残る兄弟全員、なんとか癌DNAの呪縛から逃れたいと願っている。

『ミシン』  Feb. 8, 2010 ▲Top
 私の家族は6人の男兄弟で、戦後の食料不足の時代は、長男の私は小学校5年生ながら、 道端の僅かの荒れた土地を見つけては開梱し芋や豆、あらゆる季節野菜等を栽培し、弟達の 食料にした。育ち盛りの6人の子供達の着る物は、母親が毎夜の様に夜鍋で手縫いしていた。布は 母の帯や着物類を解いてシャツやズボン等にしていた。やがて待望のミシンを手に入れてからは 子供達の洋服は多様なデザインも可能になった。ミシンは、手縫いで洋服を仕立てていた頃から 比べて、圧倒的な速さで縫えるようになっただけでなく、近所の家から仕立て代を貰って洋服を 作り始めて生活費の足しになった。そんな母の手伝いは、長男の私が専門でミシンの縫い方も 見よう見真似で覚え巧かった。初めてミシンを見たとき、足踏みで針が上下すると、布が縫える 構造が不思議で仕方なかった。ミシンの呼び方が、ソーイングマシンが訛ってミシンと呼ぶように なった話は大人になってから知った。

『カメラの失敗』  Feb. 7, 2010 ▲Top
 デジカメは、古いものも含めて4台持っている。年々高性能小型化と大容量メモリーが使えて 便利になった。最近、携帯して出掛けるカメラは、薄型コンパクトデジカメばかりになり、昔の カメラは殆ど持ち出す事も少なくなっていた。昨日たまたま大きな会合があり偶にはと、古いカメラを 久し振り充電して持参した。以前からカメラの性能は良くて気に入っていたので、機嫌よく撮っていたが、 途中で写せなくなった。理由は判らなかったが、念のために予備にコンパクトデジカメを持っていたので、 途中からそちらで撮った。家に帰って画像をダウンロードしたところ、途中で写せなくなったカメラは、 何故かメモリーに何も残っていない。途中から撮ったデジカメは正常に撮れていたが肝心のシーンは 途中からで全体は撮れていなかった。どうやら古いカメラは電池がおかしくなった途端に撮り終えた メモリーも消去してしまったようで、どうしても再生できなかった。今更ながら古いカメラを持ち出した 失敗を悔いたが、遅かりし由良の助だった。

『海苔の日』  Feb. 6, 2010 ▲Top
 昔は農作物等が年貢の対象となって時代、海苔も年貢の対象になっていた時代がある。それが 大宝律令として701年2月6日に制定された事にちなみ、後の1967年に全国海苔・貝類漁業協同組合 連合会が2月6日を「海苔の日」と制定している。古くから保存食品として海苔が生産され江戸時代には 隅田川下流域で養殖され、江戸名産のひとつとして浅草付近で採取されたものが浅草海苔として、 市販されていた。海苔には海水産と淡水産があり、海水産の代表が浅草海苔で「浅草海苔巻き」は 1787年に江戸の寿司店が考案したと伝えられている。1962年頃には愛媛県西條市玉津浜に於いて、 オオバアサクサノリが、養殖漁業者達により生産され、病気に強く育てやすい養殖ノリとして普及した。 海苔1枚の大きさは、通常タテ21×ヨコ19cmと昭和40年頃にこのサイズに全国統一されている。

『扁桃腺炎』  Feb. 5, 2010 ▲Top
 2日前から体調を崩して鼻水は出るわ熱は出るわで喉を痛め、一時はインフルエンザかと心配 した。最高37.6度まで有った熱が下がらなければ医者に行く積りだったが、一晩で熱は下がり 鼻水は止まったので、病院行きは思いとどまった。特別な薬も飲まず仕舞いだったが、自分で 行った治療としては、うがい薬でうがいした事と、のどぬーると言うスプレーを喉に吹き付けた ことぐらいだった。これにより、喉の痛みは治まり、熱も下がるきっかけとなったと思う。 昔から風邪の引き始めは、いつも扁桃腺が腫れて高熱を出す事が多かったので、今回も喉の痛み に気付いてすぐ、喉の手当てをした事が良かったようだ。何よりもインフルエンザで無かった 事が幸いだった。

『体調不振』  Feb. 4, 2010 ▲Top
 昨日は、節分であり自分の誕生日でもあった。毎年この日は豆撒きをして歳の数だけ 豆を食べて、恵方巻きを戴くのが習慣だった。ところが前の日、所要が有って出かける時、 少し薄着で自転車に乗ったせいか、夕方家に帰ってから鼻水が止まらなかった。少し喉も 痛かったので、喉ぬーるスプレーで消毒して早めに寝た。しかし昨日の朝は身体がだるくて 咳も出て調子が良くないので、念のため熱を測ってみると、37.6度あった。私は日頃滅多に 熱など出さないので熱には弱い方だ。食欲も無く、家内が折角誕生日のご馳走を準備したが 殆ど食べられなかった。こんな時は安静にして寝るのが一番と昨日は寝て過ごした。体温は 最高37.6度まで有ったが、夜は37.1度まで下がり、今朝は36.3度と平熱に戻っていた。 来週はフィイリッピンへ出かける予定でもあるので、今日こそは病院へ行こうと思っていたが 薬を飲むことも無く何とか病気は克服した。普段自分の身体を鍛えておいて良かったと思う。

『目が変だ!』  Feb. 3, 2010 ▲Top
 2日ほど前、パソコンに向かってキーボード操作をしていたら、突然左目の視野に波打ったような 現象が起きて、文字が歪んで読みにくくなった。何が原因か判らないが兎に角、変なので、取り敢えず 眼鏡を外し、レンズの清掃を図ってみた。時々レンズに異物が着いてそれがレンズの変形を起こして 居るのかと思ったが、いくら拭いても状態は変わらない。家内に目の玉を覗いて貰ったが、家内にも 良くわからないという。特別目玉のどこかに異物が付いていると言う症状は見えないらしい。どうやら 激しい眼精疲労とも思えたので、目薬を差し眼鏡と目の間にガーゼを詰めて、暫く目を休める事にした。 傍のテレビはスピーカーからの音声だけでニュースを聞きながら、約2時間ほど経って、恐る恐る眼帯 を外して見た。良かった、先ほどまで歪んで見えていた左目は、正常に回復していた。やっぱり過労気味 の目の酷使で、異常な状態が起きていたのだろう。その夜は早めに寝て、疲労回復を図った。幸いそれ 以降、目の異常は感じなくなっているので、一時的なものだったと安心した。でも今後は用心しよう。

『後期高齢者医療』  Feb. 2, 2010 ▲Top
 いよいよ明日3日の誕生日で満75歳となり、新しい医療制度による、長寿高齢者に分類される 事になる。昨日歯科医の治療を受けに行った時、提出した現役時代の企業から今年発行された ばかりの高齢受給者証も今日で効力が終了し、明日からは愛媛県後期高齢者医療広域連合が 発行した被保険者証に切り替わる事になる。幸い新しい保険証も1割負担と書かれているので 一時心配した医療費はこれまで通りと判った。しかし昨年までは家内の医療保険も私の保険に 含まれて同一の保険証で通用していたのが、家内は夫婦同一の保険から切り離され独自の 高齢者保険加入として分離され集金されることになった。企業の保険組合からは、無効となる 被保険者証の返還請求が来て、明日は使い慣れた保険証を全て送り返すことにした。細かい 事だがこれまでは、この種の郵便物返信封筒には切手が貼られていたのに、一旦縁が切れる となるとこちらで切手代負担となっているのも世知辛い思いだ。

『テレビ放送』  Feb. 1, 2010 ▲Top
 テレビがこの世に出現した時にメディア学者のマーシャル・マクルーハンがいった言葉に「TVは麻薬の ように中毒になる」。また「TVは真実の代理ではなく、真実そのものになる」と予言していた。アナログの 白黒テレビから始まって、カラーテレビになり、今や地上デジタルハイビジョンの高画質に成長してきた。 テレビジョンの発明は、ドイツのノーベル賞物理学者ブラウンが開発したブラウン管がきっかけとなった。 1911年にロシアのロージングがブラウン管を用いて、電子画像の送信実験を初めて公開した。1925年 イギリスのベアードが動画の送受信実験に成功した。その頃日本の高柳健次郎 は、すでに撮像と受像 の両方に電子式の装置を用いるテレビ研究を開始していた。高柳の研究は1928年に人物を送像する テレビ実験に成功している 。1936年に英国のBBCが一般向けのTV放送を開始。日本は1939年にNHK が実験放送に成功して今日に至っている。今やテレビ中毒に嵌りテレビの無い生活が出来る人は少ない。

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