『てるてる坊主』  Jun. 30, 2006 ▲Top
 子供のころ、明日は楽しい遠足とか、運動会というとき、何とか天気になって欲しいと、 祈る気持ちをてるてる坊主にして軒先につるし、歌ったことがあるだろう。「てるてる坊主、 てる坊主、あした天気にしておくれ・・・」って、天に祈る気持ちを込めて歌ったはずである。 てるてる坊主とは、日本の風習の一つであるが、元になったのは中国の掃晴娘(サオチンニャン) 人形だといわれている。赤と緑の着物に似せて衣を着せ、ほうきを持たせ、軒に吊るして晴れを 祈ったのが日本に伝わったもの。平安時代の書物にも書かれていると言うから、ずいぶん昔に 伝わったもののようだ。てるてる坊主を正立させた状態で軒先などに飾ると、明日の天気が晴れ、 逆に倒立させた状態で飾ると、明日の天気が雨になると言われている。 願いが叶って、晴天になった後は、瞳を書き入れて神酒を供え、川に流すという慣わしもある。 蛇足だが、信州黒姫高原に、ぺんしょんてるてる坊主という楽しい名前の施設がある。 梅雨も一休みして、明日も天気になって欲しいが・・・・

『お中元』  Jun. 29, 2006 ▲Top
 日本ではこの時期が来ると、親しい人、日ごろお世話になっている人等にお中元を贈る 習慣が出来ている。お中元とは、七月初旬から中旬にかけて、贈る贈り物。 自分の想いを品物に込めて、大切な相手に届けるのが「贈りもの」の本来のありかたで、 気持ちをそのまま伝えるためにも、本当に相手に喜ばれる"特別なもの"を贈りたいものだ。 相手に喜んでもらえる贈りものを選ぶコツは、「自分の好きなものを贈ること」。自分が コレを貰ったら本当に嬉しいだろうな、有り難いだろうなと思うようなものが、結果として 贈りものを受け取る側の立場に立つことになる。そうすれば「コレでいいかな」というような 姿勢や妥協がなくなるので、相手に対して礼を失することなく、選んだ誠心誠意を伝える ことができるのではないだろうか。お中元の品物選びのポイントは「消えてなくなるもの」。 差し上げたものは食品や実用品として消費され、美味しかった味や、心地よい使用感など だけが長く感覚として残るのが、よりストレートに気持ちを伝えられ、相手に負担をかけず 喜ばれることになる。お中元の相場は3000円〜5000円くらいが適当なところ。 いきなり品物だけが届くと、相手が困惑することもあり得るので、手配をしたら一筆、日頃の 挨拶と近況を知らせるハガキを出すか、気心知れた相手ならばメールや電話でも、一言送った ことを事前にお知らせしておくと、届く時には、相手にも心待ちしてもらえ、こちらの心遣い がよく伝わる。

『貿易記念日』  Jun. 28, 2006 ▲Top
 今日の一言も長年続けてくると、書くタネに困ることが多くなってくる。そんなときは、 取りあえず今日は何の日か、記念日を調べることにしている。 さて、今日6月28日は貿易記念日だった。 徳川幕府が横浜・長崎・函館の三港で、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの 五カ国と自由に貿易することを許可するという布告を出したのが1859年5月26日だった。 通産省は、この日を記念して1963年に、日付を太陽暦に換算し直して6月28日を貿易記念日 とした。貿易の役割や今後のあり方を考える日としてこの日を貿易記念日と決めたが、実は 1963年は、当時日本の高度経済成長期であり、「貿易」と言う言葉には「輸出」の意味合い が大きく反映していた。しかし輸出振興のために設置された通産省が、諸外国の圧力を受けて、 「輸入拡大」を図らねばならないこととなり、日本は貿易自由化を迫られる時代になり「貿易」 の内容が大きく変わってきた。

『露天風呂』  Jun. 27, 2006 ▲Top
 旅行で泊まる宿に入り、露天風呂につかって、旅の疲れを取る楽しみがある。 思い出に残る露天風呂といえば、宮城県の作並温泉とか、鳥取県の三朝温泉がある。 作並温泉は、30年位前、仕事の関係で毎月東京と山形を往復する途中、必ず泊まった 岩松旅館が素晴らしい露天風呂だった。「河原の湯」「滝の湯」「鷹の湯」「新湯」 「不二の湯」の5つの源泉があり、泉質は単純温泉で無色透明の無味無臭。石けんの 泡立ちもよく、湯は肌にやわらかと評判だった。鳥取方面へ仕事に行くときによく 泊まったのは三朝温泉だが、旅館の内湯より、やっぱり河原風呂。 青みかげ石で造られた 純日本風の三朝橋の上流にあり、河原に湯がわく露天風呂だ。大正時代から地元の人達 に親しまれ、いつでも、誰でも無料で入ることができる。昔は川原の中に風呂場 はあるが、物陰もなく、橋の上から入浴姿が見えるという風情があり、夜遅く芸者衆が 湯に浸かる姿を見んものと、橋の上で粘った事もある。一方岡山県の湯原温泉が昭和62年 から、「6.26」を「ろ・てん・ふろ」と語呂合わせで6月26日を「露天風呂の日」と制定。 まちの活性化や、利用者への感謝の気持ちを込めていろいろなイベントを実施。 朝6時26分のお湯とりの儀式で始まり、お茶席等が厳かな雰囲気の中で催された後は、 一転にぎやかになるこのイベントは、 地域興しイベントとしても全国的にも有名で、 カレンダーにも記載されている。当日は、旅館やホテルの内湯が無料解放され、宿泊 料金も\6,260になるなど飲食店、土産物店まで参加しての遊び心満点のイベントである。

『ウインカー』  Jun. 26, 2006 ▲Top
 車を運転中、車を右左折させるとき、曲がる側のサイドランプを点滅させて、後続車や 周りの、人や車に知らせるランプをウインカーと呼んでいる。50年くらい前の車の 方向指示器は、左右に付いた小さな箱の中から電動又は手動で赤い棒が横に水平に出て、 後続車や、周りに知らせていた。その当時の名残が、ウインカーを点灯させる代わりに、 車の窓から右腕を水平に伸ばせば、右折を表わし、同じ右腕を垂直に立てると反対側の 左折を表わすことになる。交通法規上も認められる方法だ。自転車などでは、方向指示器 が付いていないので、後続車に知らせる方法は、この手動方式が有効である。40年ほど前、 スクーターを運転中、ウインカーのランプが切れていたので、交差点で左折しようと、 20m程手前から、左手を伸ばして交差点に近づいた。曲がるホンの数メートル手前で ハンドルを切るために、伸ばしていた手でハンドルを握りなおして曲がった。と、そこに警察官 が立っていて、呼び止められた。理由は左折の意思表示を出さないで曲がったと言うのだ。 その曲がり角は、見通しが悪く、左折が終わった地点の警察官は、私の通行してきた方向を 見通すことは出来なかった。その警察官と遭遇する1秒前までは、確かに腕を伸ばして指示器の 代わりに腕を出していたことをいくら説明しても理解してくれなかった。残念ながら流れの多い 道路のことで、事実を証明してくれる者も居なくて、最後は頭を下げて謝るしかなかった。 幸い青切符を切ることは勘弁してくれたが、交番に呼ばれて長いお説教を食った悔しさは 今でも忘れない。

『畳生活』  Jun. 25, 2006 ▲Top
 日本人と畳生活は、切っても切れない深いつながりがある。日本家屋では、 部屋の広さを六畳、四畳半と畳の枚数で表現するように、すべての基準になるのが 畳の大きさ。畳の標準的な寸法は、人間一人が寝たときの寸法で作られたものだ。 畳には縦横比が2対1になっている長方形のサイズと、これを横半分にした正方形 の半畳サイズの2種類がある。大きさは3尺×6尺(910mm×1820mm)のものが基本と なるが、最近は部屋の寸法に合わせて注文生産される場合が一般的なので、サイズは 一定していない。一般的な規格としては、京間(本間)、中京間(三六間)、江戸間 (関東間、五八間)、団地間(公団サイズ、五六間)の四種類が有名である。 畳のルーツは奈良時代からと言われ、それ以前にはむしろが使われていた。平安時代、 身分の位で、広さや厚み、縁飾りの生地や色が決めれるようになった。お雛様の座って いる綺麗な縁の畳にその昔の畳の使われ方が残されている。その後発達して現在の様に 部屋に敷き詰める形になった。畳一畳は約500ccも水分を吸収し、乾燥してくると放湿 するエアコンディションをしてくれる。また、畳表は空気中に含まれる有害な2酸化 窒素を吸収し、その半分以上を無害な1酸化窒素に換えてくれる。但し、畳は湿気が 続くとカビやダニが発生し易くなるので、今のような梅雨の時期はこまめに風通しを 良くして置くことが必要。

『W杯サッカー』  Jun. 24, 2006 ▲Top
 ワールドカップサッカーも、日本は1次リーグ予選を1分け2敗で敗退し今大会を終わった。 全試合を通じて、川口、中田、中村等の活躍は、日本サポーターを満足させる働きをした。 ただ、言える事は世界の壁は、我々の予想を遥かに超える高さと厚さのあることを知った。 日本の攻撃力も、世界レベルにひけを取らない部分も随所にあった。オーストラリアにも ブラジルにも日本は先制点を取っているが、勝負どころで失点してしまったのは、初戦の オーストラリア戦も同じ、守備陣の踏ん張りが効かなかった。決定力不足も深刻だった。 クロアチア戦でも得点こそなかったが、ゴール前で楽に点を取り勝てるチャンスはあった。 どの試合でも、試合前半の日本選手の動きは世界に引けを取らない出来と思えたが、時間と 共に動きが悪くなり、相手の攻撃を阻止出来なくなる。1度ゴールを奪われると、それまでの ディフェンスが嘘のように隙だらけとなり、続けて失点をする悪いパターンが繰り返された。 今回ジーコ監督が選抜したチームは技術と経験では、過去最強と言われた日本代表だったが、 それでも世界のトップとの差は歴然だった。 もしもサッカーの試合時間が45分でなく40分間なら、体力的に問題のある日本にも勝利の チャンスがあっただろう。疲れた選手を交代させる監督の裁量もあったが、ジーコには その判断に問題があったかも知れない。4年後のW杯の監督は誰になるか分からないが、 この反省を糧にして再度世界に挑戦して欲しい。

『テポドン』  Jun. 23, 2006 ▲Top
 北朝鮮による、テポドン2号の発射準備の動きに世界中が注目している。テポドンとは、 北朝鮮が開発していると推測する弾道ミサイルのコードネームのことで、命名の由来は、 北朝鮮の東部海岸の「大浦洞(テポドン)」という地名のことで、弾道ミサイルの発射 基地があることから、アメリカ中央情報局(CIA)によって「テポドン」と命名された。 しかし、北朝鮮ではテポドンのことを、「白頭山(ペクトゥサン)」の名で呼んでいる。 テポドンは平成10年8月31日に、人工衛星の運搬手段のかたちで試験的に発射された。 津軽海峡付近から日本列島を越えるコースを飛び、途中、第一段目は日本海に落下し、 第二段目は太平洋に落下した。この時北朝鮮の弾道ミサイルの発射実験である証拠を得る 為、海上自衛隊は護衛艦などを駆使して落下した物体を捜索したが、遂に発見できなかった。 テポドン2号の射程距離は3500〜6000kmとみられ、米アラスカ州が射程に入る。 もし改良型の場合、米西海岸に到達する可能性もあると警戒している。 今回、北朝鮮による長距離弾道ミサイル「テポドン2号」の発射実験準備の動きに対して 米国防総省は、偵察衛星などでの監視活動に加え、不測の事態に備えて迎撃のための ミサイル防衛システムの態勢も整えている。ただ、実際に迎撃した場合は国際的な緊張が 一気に高まるのは必至で、北朝鮮に対する圧力をかける意味合いが大きい。

『夏至』  Jun. 22, 2006 ▲Top
 今日6月22日は夏至、一年の中で最も昼間が長く夜の短い日である。 この日、太陽が最も高い夏至点に達するため、北半球では昼が最も長くなり 夜が最も短い。冬至に比べると、昼間と夜の時間差は4時間50分もある。 暦の上では夏にあたるが、日本ではうっとうしい梅雨の時期である。 また、日本と違って北欧圏では暗く長い冬が続いた後なので、夏至のこの日は 特別の喜びを持って迎えられ、各国で盛大に夏至祭が行われている。 「夏至」のこの日を過ぎると本格的な夏が始まることを意味している。 冬至にかぼちゃを食べるように、この日も何かを食べる習慣はあるが、何を 食べるかは、地域によっていろいろである。例えば関西地方では、タコの 八本足のように、イネが深く根を張ることを祈願してタコを食べる習慣がある。 「夏至」という言葉は、中世に中国から二十四節気が入ってきてからである。

『食品腐敗』  Jun. 21, 2006 ▲Top
 じめじめした梅雨時は食べ物が腐敗しやすく、カビ等が生え易い時期である。 今のように電気冷蔵庫の無かった時代は、食品の保存が大変だった。夏の暑さより、 梅雨時のほうが腐敗しやすいのは、湿度がバイキンを繁殖させるのに適しているから。 バイキンの繁殖しやすいのは、気温25〜30度、湿度80%と言われている。湿度が90% を超えると、気温は15〜35度と条件範囲が広くなる。従って梅雨時にものが腐敗し易い のは、この湿度が大きく影響しているのだ。腐敗とは腐敗細菌、真菌、酵母など 微生物によってタンパク質などの窒素を含んだ有機物が分解されることを言う。 腐敗物には腐敗アミンなどが生成分解するため、独特の臭気を放つ元になる。腐敗の 具体的内容は多岐にわたり、元の材料、その置かれた温度、水分などの条件によって 様々に変化する。食品には種々の細菌が存在するが、これらの細菌がすべての食品の 腐敗に関与するとは限らない。食品のおかれた環境や食品成分の違いにより腐敗細菌 の種類も異なってくる。食品の温度、酵素量、pH、水分、栄養成分等の増殖に適した 細菌が優先増殖し、一方、条件に合わない細菌は劣勢化している。 微生物によって生成される物質のうち不快臭のある物質としては、アンモニア・ 硫化水素・メルカプタン・インドール・トリメチルアミン・酪酸等があり、有害物質 としては、ヒスタミン・乳酸・ガス・ネト等がある。

『クロアチア戦』  Jun. 20, 2006 ▲Top
kawaguchi.jpg  ワールドカップ緒戦のオーストラリア戦で、前半のリードを守りきれず、逆転負けを 喫した日本チームにとって、クロアチア戦は勝ち点3をどうしても取りたい試合だった。 日本は前半、22分に相手にPKを与えた場面が、最大のピンチだった。日本の守護神 GK川口能活が、スルナの右足からボールが蹴られた瞬間、左に跳んだ。左腕が力強く 伸び、低い弾道で飛んできたボールを、ポール左にはじきとばした。相手のキックする 瞬間の僅かの動きに反応したすばらしいスーパーセーブで、難関を乗り越えた。この瞬間 普段クールな中田までが抱きついて来た。スタンドのサポーターやテレビ観戦のフアンは まるで日本が勝利したような感動を受けた。再三のピンチを凌いだGK川口は素晴らしかった。 試合後、中田が勝てた試合だったと、吐き出すように悔しがったのは、後半6分、柳沢が ゴール前左でフリーとなり、右サイドの加地からのパスを受けた時だった。楽に流し 込めば簡単に得点が生まれる絶好のチャンスに、右足のシュートは無情にゴール右へ 外れた。相手の守備陣を崩した決定的な場面で、位置取りも完ぺきだっただけに、悔やん でも悔やみきれないシュートミスだった。まだ戦いは終わった訳ではない。WBCの野球 でも、一度は負けて帰り支度までしていて、復活のチャンスに奇跡的な優勝を果たした。 サッカーにも同じ事が起きるかも知れない。ブラジル戦に奇跡が生まれる可能性はある。

『桜桃忌』  Jun. 19, 2006 ▲Top
 6月19日は太宰治の命日として桜桃忌と言う。太宰治は突然遺書を残して姿を消した。 必死の捜索が続けられたが、6日後身投げしたと思われる所から2kmも下流の場所で 遺体が発見された。その日は丁度太宰治が39歳の誕生日の6月19日で命日とされた。 彼が山崎富栄と玉川上水に入水心中して亡くなったのは、昭和23年6月13日のことだが、 友人知己が集まって、毎年1回は太宰治を偲ぶ会を持とうと言う話が持ち上がり、翌年の 6月19日に第1回桜桃忌が行われ、太宰治を敬愛する多くの人達が参加した。 「桜桃忌」の命名は、太宰治の名作「桜桃」にちなんだものだが、鮮紅色のこの果物は 壮烈な太宰治の生き様と、宝石のような短編作家というイメージに最も相応しいものだ。  墓は太宰治の生前の希望で、自らが住んでいた三鷹の禅林寺に建てられ、墓碑には 「太宰治」とのみ刻まれている。この寺には森鴎外の墓もあるが、生前時々散歩に来た 様子で、森鴎外は太宰が最も尊敬する作家であったと言う。

『父の日』  Jun. 18, 2006 ▲Top
 1908年アメリカのフィラデルフィアの教会で、お世話になった母に白いカーネーションを 配ったのが母の日行事の始まりで、1914年、アメリカのウィルソン大統領が5月の 第二日曜日を母の日と制定した。母の日があって父の日がないのは片手落ちと、 アメリカの一夫人が父親に感謝するパーティーを開いたのが父の日の始まりで、 その後1934年に父の日委員会が結成され、母の日にならって6月の第3日曜を父の日 に制定した。さらに1972年、アメリカでは「父親を尊敬し、称え祝う日」として、 国民の祝日となった。日本で一般的な行事になったのは昭和28年(1953年)から。 母の日の花が赤いカーネーションなのに対し、父の日のシンボルは白いバラとされ ているが、特に決まりはないようだ。 又、「父の日」のプレゼントには、黄色いリボンをつける習慣があるが、古来 イギリスでは「黄色」は身を守るための色と伝えられており、これがアメリカに 渡って 「黄色いリボン」となり、「愛する人の無事を願うもの」となった。 昔ジョンウエインの演じた西部劇に、「黄色いリボン」と言う映画があった。 「愛する人の戦場での無事を祈り帰還を願う」シンボルとなった色である。

『梅干』  Jun. 17, 2006 ▲Top
umeboshi.jpg  子供の頃、母親から健康の為に1日1個は梅干を食べる様にと言われていた。 人は本来、体を弱アルカリ性に保つことが大切であるが、日本人の主食とする お米のご飯は、体内に吸収されて酸性となる。ところがそれを中和してくれる のが梅干しで、梅干し1個には、お茶碗2杯分のご飯を中和してくれる働きが あると言う。すべての梅干しに共通した大きな特徴は、味が非常に酸っぱく、 この酸味は酢やレモンとおなじクエン酸のせいである。そのため梅干しは酢と 同様に健康食品としても有名である。梅干しをつけるときに一緒に漬ける赤じそ には、解毒作用もあり、科学知識のない昔の人が、体によくて、しかも保存性の 高い梅干しをよく考え出したものと、改めて昔の人の智恵に驚かされる。 梅干しには6月頃の熟した果実を使う。樽などで塩漬けにした後、3日ほど天日干 しにする。この状態のものを白干しと言い、保存性に優れているが、塩分が多い ためとても塩辛い。最近は塩分を抑えて味付けを施し、調味漬けにした梅干しが 多い。調味漬けの梅干しとして、赤じその葉とともに漬けて赤く染めたしそ梅、 昆布と一緒につけて昆布の味をつけた昆布梅、蜂蜜を加えた蜂蜜梅などがある。

『三面記事』  Jun. 16, 2006 ▲Top
 我々は毎日何気なく新聞を読んでいるが、面白い記事の書かれているページを、何故か 三面記事と呼んでいる。現在の新聞はページ数にして20ページ以上あるのが普通である。 1ページ目は、政治経済社会を含めて一番重要な記事が書かれているが、どちらかと言うと 見出しページ的である。本当に読ませたい主要な内容は、内側のページに書かれている ものである。しかしそれが3面ではないのだが、何故なのかと言うと、明治時代の新聞は 四面だけで構成され、一面が広告、二面が政治・経済、三面が社会、四面が連載小説や 家庭・文化という構成だった。一面と四面は外側になるので大切な記事を書くと、新聞 配達中等に雨で濡れて、インクが滲み読めなくなってしまうおそれがあったため、大切な 記事は内側の二面三面に書くようになったと言う。現在でも社会ネタは大抵の場合後ろの 方になっていて、新聞のページ数が増えても、重要な記事が書かれているという意味で 三面記事と言われている。社会面を三面記事というのは、この名残なのである。

『大黒柱』  Jun. 15, 2006 ▲Top
daikoku.jpg  昔から、一家の経済を支えている主人のことを、大黒柱と言ってきた。 最近の建物では、構造的にいろいろ考えられて、昔のように家の中心に大黒柱を 立てて、全体の構造を持たせることは少なくなったが、木造の家のド真ん中には 太くて強い「大黒柱!」というのが基本だった。一家を支えるという意味に 転じて、家の中心的な人物のことをさす意味で、一家の大黒柱と言う様になった。 もともとは、土間と床との境の中央に最初に建てる柱のことを大黒柱といい、 ほかの柱より太く、家の格をあらわす重要な柱のことを指していたといわれるが、 現在の住宅建築では、通し柱のことをさす場合が多い。通し柱とは、2階建て 以上の建物で、土台から軒まで切れ目なく通った柱のこと。 大黒柱の語源は、朝堂院の正殿「大極殿」の柱を「大極殿柱」ということから、 「大極柱」になったとする説。室町時代から、恵比寿大黒の大黒様は富を司る神と して祭られていたため、大黒天にちなみ「大黒柱」になったとする説。 国の中の柱という意味の「大国柱」の「大国」が転化し、「大黒柱」になった とする説などあるが、正確な命名の由来は分かっていない。

『ゆで卵』  Jun. 14, 2006 ▲Top
 家内が姉の家から20個もの玉子を貰ってきたので、炊き立てのご飯に生卵を かけて食べ、5個ほどを茹でてくれた。ゆで卵を剥いて食べようとしたが、中々殻が 上手くむけない。殻が剥がれ難くて、身がくっ付いて、無理やり剥いた玉子はギボ ギボになってしまった。どうやら玉子が新し過ぎたようだった。さすがに生みたての 玉子かけは美味しかったが、ゆで卵は失敗だった。卵は白身に「炭酸ガス」が多く含 まれている為に、この炭酸ガスがカラをむき難くする原因になっているらしい。産み 立てから1週間くらい経った玉子は、この炭酸ガスが自然に抜けていて、茹でても殻 がきれいに取れるし味もよいようだ。 美味しいゆで卵を作るには、食べごろの時期が存在することが分かった。室温で保存 するなら1週間くらい、冷蔵保存なら3週間くらいが目安らしい。では、生みたての ゆで卵を上手く剥く方法は無いのか調べて見たら、あった。新しいゆで卵の殻のむき 方は、水道水など流水に流しながら卵と殻の間に水が入るようにすると、きれいに剥 がれた。ゆでる前に卵に少しだけ傷をつけるという方法もあった。ゆであがった卵を 熱いままの殻つきで、1晩塩水につけて置くと、塩味の効いたゆで卵が出来る事も知った。

『ワールドカップ』  Jun. 13, 2006 ▲Top
 日本対オーストラリア戦、手に汗を握りながらTV観戦した。前半戦で1点を先取し 日本の攻撃にリズムがあったし、敵の反撃に対する川口の守りも完璧だった。危ない場面を 何度も川口の好守備で守りきっていた。後半戦で、オーストラリアのフォワードに背の高い ケネディが出てきた辺りから、敵の攻撃が積極的になり、中沢のファールから、引き続いた コーナーキックでついに同点に追いつかれた。ジーコ監督は、残り時間を攻撃側に選手を まわし、追加得点を狙ったと思われるが、その分守りが薄くなり、敵の逆転攻撃を許す事に なってしまった。日本側の攻撃陣も何度かシュートのチャンスがあったが、見事な敵の 好守備にあい、とうとう得点には至らなかった。逆転はされたが戦い振りを冷静に振り返って みれば、この戦いで、日本の勝利のチャンスは十分あったと思う。しかし過去のデータでは、 緒戦に負けたチームの優勝の確率は、非常に低いとの結果が出ているので、このオーストラリア 戦の負けで、今後の日本チームは苦しい戦いを覚悟しなければならなくなった。 まだ、試合は始まったばかりだ、敗戦の反省はしなければならないが、まだ諦めは早い。 次の試合に賭けてまた頑張って欲しい。

『烏合の衆』  Jun. 12, 2006 ▲Top
karasu.jpg  我が家の近くのマンション屋上に、いつも数羽のカラスが棲みついている。但し常時居る 訳でなく、どこか別の場所に巣があって、日中だけ餌を食べにきたときの居場所なのだろう。 別に、毎年この時期になると、つがいの鳩が、ベランダに飛来し、放っておくとベランダの 隅の方に巣作りを始めるので、注意して追い出しておくことが必要だ。油断をすると、その 辺中に糞公害を受けてしまう。但し近くにカラスが居ると、何故か鳩は近寄ってこない。 本来カラスの集団を烏合の衆と言い、カラスが集まっても、鳴いてうるさいだけで、役立たず、 規律や統一性に欠けることから、喩えとしてこの語が生まれている。カラスは雑食の鳥で、他の 野鳥などを襲ったりするので、鳩なども近寄らないのか、カラスが我が家を見張ってくれて 役に立っている。どうやら「烏合の衆」は昔に作られた言葉であるため、カラスが馬鹿な鳥 のようにされているが、現代では鳥類の中で最も知能が高い鳥とされ、お互の情報交換には カアカアと泣き声で知らせあうことが知られている。

『傘の日』  Jun. 11, 2006 ▲Top
 平成元年6月11日、日本洋傘振興協議会が、暦の上で入梅のこの日を「傘の日」 と制定している。洋傘は勝海舟が咸臨丸でアメリカを訪れた際、お土産として持ち 帰ったものが最初で、明治時代の文明開化で華を咲かせたシンボルだったと言う。 この時代、洋傘は高価だったので、雨が降って濡れると勿体無いので、折りたたんで 持ったり、腰に挿して歩いたので、傘を挿すと言う言葉が生まれたとか・・・。 日本古来の傘と言えば、「唐傘(カラカサ)」「番傘」「蛇の目」が思い浮かぶ。 「唐傘」の字から想像すると、中国から伝来の傘なのだろう。貧乏長屋で落ちぶれ 武士が、カラ傘貼りをしている姿を映画などでよく見掛ける。私達子供の頃番傘は 家に何本かあり、洋傘よりは安かったのだろう。旅館や商店の名前が書かれた番傘も 我が家にあったのを記憶しているが、店の宣伝やお土産的なものとして、使われて いたのだろう。「蛇の目」は、渋い油紙を貼った色気の無い番傘に比べてやや細身で、 色鮮やかなものが多かった。主として女性用で、色町のお姐さんの持ち物と言った 風情があった。我が家の蛇の目は母親のものだったが、軽くてきれいだったので、 無断で持ち出すことも多かった。現在では無地の傘でも「蛇の目傘」と呼んでいる。 イギリスの諺に「人に貸したもので返ってこないものは、本と傘と金」と言うのがある。

『入梅』  Jun. 10, 2006 ▲Top
 今年は早くから梅雨に似てぐずついた天気が多かったので、気象庁も梅雨入り宣言は、 早くから梅雨模様と予想をしていた。8日に近畿、東海地方、九州・四国の梅雨入りに続き、 9日には関東甲信越の梅雨入りも宣言した。結果は昨年より3日早く、例年よりは4日遅い 梅雨入りとなった。四国地方の6、7月の降雨量はほぼ平年並みの見込みで、昨年の 「空梅雨」とは一転して、水不足の心配を解消する「梅雨らしい梅雨」になりそうだと 予測されている。梅雨明けは、平年なら7月17日頃だが、今年も同じような見込み。 入梅は、雑節の一つで、太陽が黄経80度の点を通過する日を言い、毎年6月11日頃となる。 本来入梅とは「梅雨入り」の中国語的な表現であり、梅雨の期間全体を「入梅」と呼ぶ 地方もある。本当の梅雨入り・梅雨明けの日付はその年により、又は地方により異なる ものであるが、農家にとって梅雨入りの時期を知ることは、田植えの日取りを決めるのに 重要な要素だった。 現在は、気象庁の観測及び予報に基づいて梅雨入りを発表しており、「入梅」は実際の 梅雨とは関係のない暦日となっている。

『会社OB会』  Jun. 9, 2006 ▲Top
 大学を卒業して入社した会社に30年間在籍した後、退職して故郷に帰り20年が過ぎるが、 その会社の退職者で作る会に、登録したOBが547名になる。今年は特に会社の事情で、 早期退職者を募った経緯もあって、新規入会者だけで230名もあり、一気に会員が増えた。 会社では、年間予算を組み、過去に長年会社の業績を支えてきたこれらOB達に、毎年 集まって貰い、会社の現況報告や、新規開発中の商品紹介等と共に懇親会を開いている。 今年も6月7日に目黒の本社ビルで総会が行われたので、私も2年ぶりに参加した。 新しく就任した社長により、業績が低迷した前期からの再建計画が力強く発表され、 集まった先輩OB達も満足した表情で聞き入っていた。別室に用意された新技術を駆使 した商品説明も頼もしく、今後の展開が期待された。懇親会は本社地階の社員専用レストラン で行われ、新旧OBが酒を酌み交わし、懐かしい昔話に時の経つのも忘れるほどであった。 最後は、特に閉会の宣言もなく、それぞれのグループ毎に会場を後にして行った。

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