はじめに
 バドミントン競技は比較的新しい種目であり、戦後になって広まりを見せ始めた。愛媛県においても例外ではなく、 バドミントン競技が行われたのは昭和二十五年秋、松山家庭裁判所という職域クラブであると記録されている。その年を皮切りに、 松山・新居浜・今治の三都市に次々とバドミントン競技が産声をあげていったのである。ここ新居浜市では昭和二十六年三月のことであった。 それから約六十五年、新居浜市のバドミントンは普及の一途を辿り、ジュニア・中学・高校・高専・家庭婦人・一般・リーグと男女を問わず あらゆる世代に広がりを見せ、一説に二千人を超える競技人口を有する市内最大級の種目団体に成長したのである。 さて、新居浜のバドミントンの歩みを紐解いてみよう。
1、 黎明期(昭和二十六年〜昭和二十九年)
 昭和二十六年六月、スポーツ用品店を経営する芝宏(ひろむ)氏が、当時の新居浜西高体育教官片上進氏 (現新居浜市バドミントン協会名誉会長)に、バドミントン競技の指導者が岡山におり招聘して指導してもらうことができることを進言した。 以前より雑誌等でその競技の存在を知っていた片上氏は、感謝と共にその提案を受け入れ新居浜西高にて講習会を行うこととなった。 受講した高校生はその日よりバドミントンに魅了され、練習をはじめた。新居浜でバドミントンが産声をあげた瞬間であり、 県下初の高校バドミントン部ができた瞬間でもあった。 同年わずか一年の歴史のバドミントン競技が松山東雲高校で国体県予選を開催した記録が残っている。 その結果、高校男子チームに前野敏彦、山口淳、一般女子チームには寺岡久美子、明星信子、笠井みつ子と新居浜西高勢が活躍した。 さらに、十一月の県スポーツ祭においても、(男子単)山口準優勝、(女子単)寺岡優勝、笠井準優勝、(女子複) 寺岡・笠井組優勝と好成績を収めている。続く昭和二十七年東北国体愛媛代表には寺岡が再び選ばれている。 当時の県大会は、社会人・学生に種目の区別がなく、男子においては社会人が女子は高校生が上位を占めることが多かったようだ。 その中において新居浜西高バドミントン部員の活躍は目覚しく、初期の黄金時代を築いたと言える。 昭和二十八年の四国国体を契機に県協会の再編成が行われ、行政から民間へと役員の入れ替えが行われた。 当時一般では松山家庭裁判所、地方裁判所、県庁、松山市役所、高校は新居浜西、今治北、松山南、松山商業、松山東、宇和の 六校という状況であった。
2.実業団全盛期(昭和三十年〜四十六年)
 昭和三十年代初頭から新しい流れが見え始めた。松山の丸善石油、新居浜の住友金属鉱山別子鉱業所、住友化学菊本、住友化学新居浜と相次いで県内の大企業にバドミントン部が誕生したのである。実業団時代の到来である。  新居浜では住友金属鉱山別子鉱業所が最初の実業団チームであった。新居浜市惣開町三番地の鉱山記念講堂にて約十名ほどが週一回の定期練習を始めた。指導には法政大学で競技経験のある藤田恵弘氏(香川相互銀行)などが当たった。藤田氏は、昭和三十年・三十一年と二年連続で一般男子県代表として国体に参加しておりその実力ぶりはうかがえる。また氏は、西高の指導にも足を運んでいたようである。その後まもなく、住友化学菊本製造所と新居浜製造所に実業団チームができ、記念講堂で合同練習を行うようになった。 住友金属鉱山は、なんと昭和三十二年八月岐阜市で開催された第七回全日本実業団選手権大会に、監督:山本元旦、選手:伊藤和代、寺沢晴代、本藤俊子、西原小夜子で構成した女子チームを参加させている。これが新居浜の実業団で初めて全国大会に参加したチームである。男子はというと、昭和三十三年第二回県実業団選手権において初出場ながら見事県制覇を果たしている。さらに、続く昭和三十四年第三回県実業団選手権において、この大会から初出場の住友化学が全勝優勝を成し遂げ、新居浜のレベルの高さを印象付ける結果となった。その年善通寺市で開催された第九回全国実業団選手権大会には県代表として後述の新居浜の男子三チームが初参加している。 住友化学新居浜 監督:平井純、選手:平井純、大島宗紀、豊島進、矢野晃、福井久男、奥田義雄、近藤忠徳。 住友化学菊本 監督:野崎義之、選手:越智勤也、三苫孝一、玉井保孝、高橋義人、佐伯伝、和田伸一、安藤弘。 住友金属鉱山 監督:尾崎舜朗、選手:尾崎舜朗、須藤晃一、川上達久、冨加見正、小野光宏。 県内の他チームを抑えての全国大会出場は、部を結成してすぐにできるものではない。ここに至るまでの企業の物心両面の援助と、恵まれない練習環境にもめげず厳しい練習を続けた部員たちの努力によって成しえたものなのである。  昭和三十四年以降、住友化学菊本と住友化学新居浜は全国実業団選手権に連続して出場しているが、最初の数年は苦汁を嘗めさされていた。全国のレベルの高さをいやというほど味わわされたことが更なる練習の励みになっていったのである。  ところが、昭和三十九年度松山市で開催された第十四回全日本実業団で地元の利も手伝って初の入賞者が出た。三十才代複三位の福井久男・神野恒信(住友化学新居浜)と四十才代単二位の安藤八郎(住友化学菊本)であった。それ以降新居浜の実業団には栄光の歴史が次々と加わっていった。  昭和四十年度北九州大会 三十才代複四位福井久男・津吉哲郎(新居浜)、四十才代単二位越智勤也(菊本)、四位安藤八郎(菊本)、四十才代複二位越智勤也・安藤八郎(菊本)。  昭和四十一年度大阪大会 三十才代単四位三苫孝一(菊本)、四十才代単四位安藤八郎(菊本)。 昭和四十二年度勝山大会 三十才代単三位三苫孝一(新居浜)、四十才代複三位越智勤也・安藤八郎(菊本)、四十才代単優勝越智勤也(菊本)。 昭和四十三年度諫早大会 四十才代複三位越智勤也・松本真夫(菊本)。 昭和四十四年度釜石大会 四十才代複三位安藤八郎・福井久男(新居浜)。 昭和四十五年度高松大会 四十才代単二位千葉重信(菊本)、三位越智勤也(菊本)、複三位越智勤也・千葉重信(菊本)。 昭和四十六年度鹿児島大会 三十才代複三位三苫孝一・千葉重信(菊本)。 そして、昭和五十六年新居浜の実業団チームが解散するまで約二十五年間歴史は続いたことになる。しかし、実業団の功績はただ単に大会結果にとどまらなかった。優秀な人材を輩出してきたのである。長年事務局を勤めた越智勤也氏は片上進会長を支えて熱意をもって地域のバドミントン普及に貢献し、かつ後進の指導に尽力した。あとを引き継いだ安藤八郎氏も同様であった。そして、昭和五十一年組織編成後初代理事長となった福井久男氏もやはり実業団出身者であり、平成元年まで底辺の拡大に尽力した。その他多数の実業団出身者が今なお協会運営、地域サークルの指導において活躍している。実に実業団の影響力は現在も続いているのである。 実業団の華々しい活躍と期を同じくして地道な活動をしていたグループがあった。愛媛大学工学部職員である。三十年台から学内の二面の体育館で昼休みを利用して高橋博計、白石邦夫、真鍋隆則、梅木哲郎の各氏らが中心になり二十名ほどでプレーを楽しんでいたようだ。昭和三十七年新居浜高専開校、昭和三十九年工学部松山移転などでそれ以降は大半が高専職員となった。工学部と共に松山に移った中には後に県協会で活躍する新名静夫氏(現県バドミントン協会副会長)がいた。四十年台に入り、このサークルからは中江重樹氏(現県バドミントン協会副理事長)が育ち、さらに学生時代から競技実績のある平木弘一氏(現市バドミントン協会審判部長)も加わった。 さて、県内の状況はというと、昭和三十年頃から高校バドミントン部OBが県内の上位を占め始めた。男子では今治北高OBが、女子では松山南・商業OBが活躍している。特に近藤稀人(今治北高OB、現今治市バドミントン協会会長)は、高校卒業後昭和三十年から三十七年まで八年連続で国体出場しており県トッププレイヤーであった。高校OB選手に対抗していたのがやはり実業団選手で、昭和三十三年、三十四年と二年連続で平井純(新居浜)が県準優勝し国体代表を得ている。また、住友化学のライバルであった丸善石油松山、愛媛大学の選手も県の上位を競い国体選手を輩出している。女子では昭和三十二年笠井あつ子(西高OG)が国体代表に選ばれている。 四十年台に入り大学の部活動出身者、丸善石油松山、松山商科大学のトップ争いが顕著に表れてきた。その中にあり菊本の若きエース片上逸志が昭和四十七年度国体代表を獲得し、また県選手権一般男子複で平木弘一・木原晃(高専クラブ)が優勝したのは特記すべきである。
3、 普及第一波(昭和四十五年〜昭和五十一年)
昭和四十五年第一回市民体育祭が開催され、男女の区別なく一般の部として新居浜、金子、高津、神郷、浮島、泉川、角野、中萩の八校区の参加が記録されている。ところが、昭和四十九年の第五回大会では、男子十四校区、女子十三校区の参加と飛躍的に伸びている。「スポーツの盛んな町」をスローガンに始まった市民体育祭だけに、行政もバドミントンに限らずあらゆる種目の普及に対して力を入れていた時期だった。その行政の呼び掛けに応じれる優秀な指導者が多数育っていたことが、上述のような爆発的な普及に繋がったのではないかと分析している。当時各校区の小中学校体育館・講堂で行ったバドミントン教室「スポーツ健康教室」は、次々と愛好者を増やしていきほとんどの校区にサークルができるまでになったのである。主な指導者に中江重樹、越智勤也、三苫孝一、福井久男、佐薙勲、安藤八郎、千葉重信、平木弘一などの各氏がいた。 また、家庭婦人もこの頃に普及したと伝えられている。昭和四十二年住友化学体育館、昭和四十七年住友重機体育館と相次いで企業の体育館が落成した。まずは、住友化学体育館で社員の奥さんたちがグリーンクラブを結成した。これが家庭婦人チームの始まりである。その後企業の体育館を利用した家庭婦人サークルが次々と誕生し、また同時に、スポーツ健康教室出身の家庭婦人も校区サークルで活動をはじめた。 昭和四十八年新居浜市バドミントン協会が主催し第一回新居浜市婦人バドミントン大会が開催された。これが県下最初の家庭婦人大会であり、新居浜は家庭婦人においては先駆者的立場であったことが伺える。それから三年後の昭和五十一年十一月二十一日にやっと県家庭婦人大会が実現した。しかし、実に参加十一チームのうち、新居浜は大多数に当たる十チームを数えた。内訳は山田、ひまわり、住重婦人、前田、山田前田の企業の婦人チームと宮西、高津、垣生、泉川、角野の校区チームであった。 その他、昭和四十八年には新居浜南高が創部している。
4.協会再編成(昭和五十一年)
この数年間に校区と家庭婦人の愛好者が飛躍的伸びたため、時代は協会の組織化を要求することになった。そして昭和五十一年四月二十一日「新居浜市バドミントン協会規約」を定め、各校区・サークルの代表者を理事に、主に普及活動に携わっていた指導者を常任理事に任命し、新居浜市バドミントン協会は再スタート を切った。
5.普及第二波(昭和五十二年〜)
 待望の市民体育館が昭和五十二年七月三十一日竣工した。百円の入場料を払えば入館でき気軽にバドミントンを楽しめることから、市民体育館を利用する愛好者が増えてきた。実業団でも校区サークルでもない一般サークルがこの期を境に次々と誕生していったのである。その代表的なものに新居浜愛好会がある。  昭和五十年頃、県一般では実業団チーム丸善石油松山の若手が上位を占めることが多くなってきた。その中で昭和五十年国体県代表に住友化学菊本の戸井田誠が選ばれたのは賞賛に値する。また、県団体総合選手権で昭和五十三年に新居浜愛好会が二位獲得、昭和五十五年には高専クラブが見事優勝を勝ち取っている。
6.ビッグイベント開催(昭和五十五年)
 昭和四十五年から始まった普及第一波、第二波により、人口十三万都市にしては充分過ぎるほど底辺が拡大し、かつ協会組織も充実してきた。次なる目標は、ビッグイベント開催であり、それを契機に行く行くはレベルアップに繋げていきたいというものである。市民体育館落成により施設面でもビッグイベントを受け入れるだけの条件は整ってきた。 そして、待望のビックイベント第三十回全日本実業団バドミントン選手権が新居浜で開催された。団体戦百四十五団体、個人戦延べ七百六名の参加に及び、市民体育館、住友重機体育館、住友化学体育館の三会場を使用し、レセプション等を含めれば六日間に及ぶビッグイベントであった。 この大会は、協会役員、実業団選手、家庭婦人、一般サークル、校区サークルなどすべてのバドミントン愛好者が一丸となって運営に当たったことが大成功の原因であることは間違いないが、瀧山一甫氏(現県バドミントン協会副会長、県家庭婦人連盟会長)の存在も忘れてはならない。氏は、学生時代関西学連で活躍し、社会人時代もバドミントン業界で活躍するなど、以前よりバドミントン界に精通していた人材で、中央とのパイプ役、イベントノウハウの提供などで貢献した。この大会においては、三十才代複で守谷喜久雄・藤田健治(住友アルミ菊本)がベスト8と健闘した。 その後、新居浜では日本リーグ、日中競技会、日韓競技会、西日本家庭婦人、全国中学校選手権など次々とビッグイベントを開催し、その度に新居浜のバドミントン界に刺激を与えつづけている。
7.昭和末期(昭和五十六年〜昭和六十四年)
 新居浜の実業団チームは昭和五十六年の名古屋大会を最後に長い歴史に幕を下ろした。常にライバルでありつづけ近年は県のトップに君臨していた丸善石油も昭和五十七年の大会を最後にメンバーは分散し全国大会に出場できなくなった。そして、愛媛の実業団はクラレ西条に引き継がれた。 県一般男子のトップは、丸善石油とハルトノの争いであった時期がしばらく続いた後、昭和五十七年頃から西条農業OBが頭角を表してきて、ハルトノ、西農OB、今治クラブ、クラレが四強として争うことが多くなった。一般女子では西条バードが活躍し、高校では以前より男子西条農業、女子西条高校が優勝することが多く、一時的に西条時代が到来したと言っても過言ではない。 新居浜勢はというと、県のトップ争いに加わることはほとんどなく、県選手権の年代別で若干の活躍をするにとどまっていた。ただ、女子の部では双葉が常に上へ上へと挑戦しており伸び盛りであったことが伺える。 ところが、昭和六十二年度の県選手権では松井哲(菊本同好会)が並み居る強豪選手を撃破して、男子四十才代単を衝撃的に制し、複でも公文英二(菊本同好会)と組み制したことは印象的である。さらに翌年の昭和六十三年度国体予選複において、森川均・西原賢一(スマッシュ)が決勝まで勝ち進んだ。同年の県選手権一般男子複でも、森川均・西原賢一と秋山亨・金浦新吾(高専クラブ)が決勝まで進んだ。実に森川、西原、秋山の三人は新居浜勢であり、県一般男子における新居浜勢同士の決勝は史上初の快挙であった。これらの結果は来るべき新居浜時代を予感させるものがあった。
8.平成時代(平成元年〜現在)
組織編成以降十四年間続いた福井理事長が平成元年度をもって辞任し、安藤守理事長が就任した。既に普及が行き届いた新居浜にとって欲しいものは、やはり実績である。昭和末期の新居浜勢の意外な活躍は、他のプレイヤーにも影響を与え頂点を目指す選手が増えてきた。また、着実に実力を付けてきた家庭婦人の双葉の活躍にも大きな期待がかかった。 早速平成二年全国家庭婦人選手権クラブ対抗の部で双葉(監督:瀧山一甫。選手:長井雪子、秦由美子、伊藤トシ子、佐々木恵子、白石久代、松永幸恵、阿賀田仁美、梶岡由美)が見事初優勝の吉報をもたらした。さらに双葉は、平成六年、平成十年と全国制覇を続けている。優勝チームは三年間出場不可という規定を考えれば、三連覇と言っても過言ではない。 県大会でも新居浜勢が次々と上位に名乗りをあげはじめ、一般男子単、四十才代男子単では上位を占めるという現象も出てきた。例としては平成五年度国体予選成年男子単では日野豊、河端裕二、田坂厚司(いずれもスマッシュ)の三名でベスト4を占めた。また、平成六年度団体総合選手権でスマッシュ(浜中彰、日野豊、山田浩、田坂厚司)が新居浜勢としては十四年ぶりに優勝を飾り、さらに平成七年度も勝ち2連覇を飾った。 四国大会でも次々と好成績をもたらしてきた。主なものに、安藤守(菊本同好会)平成二年度四国社会人五十才代男子単複二冠、河端裕二(スマッシュ)平成五年度一般男子単準優勝、山田裕子(パンドーラ)三十才代女子単二連覇、逸見寛二(西高教員)四十才代男子単二連覇、大中康貴(スマッシュ)四十才代男子単二連覇、浜中彰(ラケットショップ)四国実業団四十才代男子単三連覇などである。 この時期はまた普及においても、ジュニアが八校区まで増え、高校は工業、東高が加わり、中学も川東中一校から北中、東中が加わるなど成果が上がっている。普及と実績と両面に及ぶこれらの成果は、新居浜時代と呼ぶに相応しい時期であった。 ところが、新居浜時代の真っ最中、不景気の波が襲ってきた。スポーツ界に影響が出始まるのは時間の問題であった。また、各年代層への普及による多様化、愛好者の意識の変化など今後の普及への問題点も出始めた。 平成五年浜中彰氏(現新居浜市バドミントン協会理事長)は、次世代の人材養成とサークル間の交流を念頭にリーグの設立に動き始めた。そして、平成六年四月「新居浜リーグ」が立ち上がった。その後、参加チームはゆるやかな増加の一途を辿り現在須川卓二代表のもと十部六十チームが加盟している。 平成十年四月大幅に人事が変わり、会長に福井久男氏、理事長に浜中彰氏が就任した。これにより「ミスター=スポーツマンシップ」片上進氏が四十七年に及ぶ会長の任期を終え名誉会長となった。一人から始まって新居浜に一大バドミントン王国を築き上げるまでの四十七年間であった。その間、氏の熱弁は常にバドミントン愛好者の心に影響を与え続けた。片上氏の精神は、後進の人たちに引き継がれていくことは間違いないだろう。片上氏は現在八十五才、今も毎日自転車に乗って高専体育館へ通っている。バドミントンの素晴らしさを示すかのように。。。。
9.現在の協会
 現在の協会は、昭和五十一年の協会再編成以来ほとんど変わらず、総務部、財務部、競技部、審判部、普及部の五つの専門部で構成されている。変化と言えば、平成十一年度の日本バドミントン協会大会運営規定の変更により平成十二年度からは、競技部と審判部が合併して審判競技部となることが決まっていること、それに平成十一年度当初より活動している編集部が付属機関として加わっていることくらいである。 今回の体育協会五十周年記念誌の原稿はこの編集部によって作成されたものである。
部長:福井久男、編集長:須山好恵(編集、家庭婦人担当)、編集委員:浜中彰(一般担当)、須川卓二(市民大会、リーグ担当)、澤田満(企業担当)、西谷郁夫(高専担当)、高橋眞吾(高体連担当)、久保善嗣(中体連担当)、佐薙博幸(ジュニア担当)、山田裕子・森本早百合(情報収集担当)。

協会役員(平成十一年二月現在)
名誉会長 片上 進
会長    福井久男
副会長  安藤 守
顧問   越智勤也、安藤八郎
幹事   瀧山一甫、千葉重信
理事長  浜中 彰(総務部長、体協理事)
副理事長 長井雪子(総務副部長)
常任理事 中江重樹(普及部長、体協常任理事)、平木弘一(審判部長)、野村英孝(競技部長)、宇野博文(総務)、島村光博(審判副部長、体協評議員)、西原隆(普及)、山内道夫(競技)、水野清志(審判)、佐藤正志(普及)、須川卓二(競技副部長)、杉山浩一(総務)、西谷郁夫(高専)、逸見寛二(高体連)、久保善嗣(中体連)、須山好恵(総務)、高橋恵里子(競技)、山田裕子(総務)、三吉淑美(財務部長)。

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